はてなゆき

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東京調理時間を大幅に過ぎた即席食品喰種

「君も調理時間を大幅に過ぎたやつしか食べられないんだろう?」

* * *

 まず、読者の方々に謝っておくと、私は『東京喰種』を読んだことが無い。そのくせ、こんなタイトルにしているのを、どうか許していただきたい。この記事はつまるところ、自分のダメな部分に着目した記事なのだけれど、それを直視すると壊れてしまうので、こうしてパロディに走ることでいくらか「えぐみ」みたいなものを薄めているのである。よって『東京喰種』の話は、ほとんど出てこない。大変申し訳ない。

 ここから本題。どうやら、『東京喰種』に出てくる「喰種」と呼ばれる方々は、人の肉しか食べられないらしい。その方々はもともと人間だったのだが、喰種となる前は美味しく食べられていたはずの食品が、喰種になった途端に不味く感じ始め、まったく食べられなくなってしまったのである。

 それで、私はタイトルの通り「調理時間を大幅に過ぎた即席食品喰種」なのである。これはつまり、「調理時間を大幅に過ぎたインスタント食品しか食べられない」ということではあるのだが、先の喰種とは話が違う。

 何が違うのか。それは、調理時間を大幅に過ぎていないインスタント食品を不味く感じるわけではないということだ。だって、人間なんだもの。当たり前じゃないか。作った人たちが「お湯を入れて◯分待ってくださいね」と言っているのだから、その時間通りに作ったものは、最高に美味しいに決まっている。少なくとも、その時間で調理してもらえることを期待して生産しているのだから。

 ではなぜ私は、調理時間を大幅に過ぎたインスタント食品しか食べられないのか。それは……。

 時間を測るのを、忘れているからである。

* * *

 待って。帰らないで。もう少しだけ話を聞いてくれないか。

 私だってわかっている。どうして時間を測るのを忘れるんだよ。調理時間が大事なのに。でも忘れてしまう。そしてお湯を注いでしばらくしたあとに思い出すんだ。時間測ってないって。

 だいたい、お湯を注いだらすぐにスマホのタイマーを起動すればよいだけなのである。だが、私は高確率で「いま〇〇時〇〇分だから、〇〇分に完成するな」と考えて終わりにしてしまう。その計算結果を覚えていれば大丈夫なのだが、私は調理時間を大幅に過ぎた即席食品喰種なので、覚えていない。

 だから、もう少し言葉をちゃんと選ぶとすれば、調理時間を大幅に過ぎたものしか食べられないのではなくて、調理時間を大幅に過ぎたものばかりを食べる羽目になっていると言うほうが正しいのである。

 ほんと、こういうのってどうすれば直るんですか? 誰か教えてください。というか、誰か時間を測ってください。お願いします。

 あと、これは最近になって生じた問題なのですが、ティーバッグでも同じことになります。ずっと浸してしまって、鮮やかな紅色を通り越して真っ黒の紅茶が出来てしまうのです。とほほ。

■終わり

逆自己紹介

 私の名前は田中ではない。

 年齢は58歳ではない。

 誕生日は5月13日ではない。

 性別は女性ではない。

 血液型はO型ではない。

 住んでいる場所は秋田県ではない。

 職業は会社員ではない。

 好きな食べ物はゴーヤではない。

 * * *

 自己紹介をインターネットに載せるだなんて、相当な行為だと思う。なぜって、誕生日がいつだとか、どこに住んでいるかとか、そういうことを組み合わせていったら、きっと、誰だかわかってしまうから。

 そうは言っていても、自分も大学で何をやっているかとか、誕生日はいつかとか、結局Twitterのbio(自己紹介欄)に書いてしまっている。でも別段、それをやっているのが自分だけかといえばそうではないし、むしろそうするために存在する欄なので、自己責任においていくらでも情報を書き連ねることができるのではある。

 あるいは、まったく無意味な文言を書いている人もいる。自分もかつて、「ハイパーねむねむインフェルノ」と造語を書いていたことがある。

* * *

 個人情報保護法における「個人情報」には、個人を一発で特定できるような情報だけではなくて、他の情報と組み合わせると特定できてしまうような、クリティカルな情報も含まれるらしい。

 まあ、そこまで真剣な話をしたいわけではないけど、それでも、なんとなくSNSに書いている情報を組み合わせたら、なんとなく私だとバレてしまいそうな危うさが、なんとなく漂っている。気がする。それゆえに、結構ギリギリのところを攻めて、みんなSNSをやっているのかもしれない。

* * *

 さて、冒頭の「私の〇〇は〇〇ではない」の羅列についてである。インターネットで「私の本名は〇〇です!」と高らかに宣言するのはかなりリスキーであることは、読者の方々も重々承知だと思われる。というか、街角で知らない人に「あなたのお名前はなんですか」と突然聞かれても、警戒して教えないと思う。

 では、こういう質問をされたらどうだろう。

 「あなたは田中さんですか?」

 はい・いいえで答えられる質問になった途端、なんだか答えやすくなったような感じがしないだろうか。少なくとも私なら「いいえ」と答えてしまう気がする。

 「だいたい、こんな質問に答えたところでなんなのだ」と言われてしまいそうなのだが、いやむしろ、私が言いたかったのはそこなのである。

 この質問も、この質問から得られる答えも、あんまり情報を持っていないように思える。だが、確かにこの質問に答えることで、自分が田中であるかどうかについては情報を与えているのである。これは、もともと持っていた情報がゼロであるとすれば、かなり大きいことである。少なくとも相手が田中である、もしくは田中でないことが判明したのだから。

 さらに、こういう質問を毎日され続けたらどうだろうか。「あなたは田中ですか」「あなたは佐藤ですか」「じゃあ鈴木ですか」「高橋ですか」……。日本に存在する名字の数は、相当多いとしても、やっぱり有限だ。いつかは言い当てられてしまうかもしれない。そういう質問を大量に浴びせてくる人って、相当な物好きだと思うけど。

 とりあえず冒頭については、そういう話を間接的にしたかった。あの短文たちは、なんの情報も与えていないようで、実は少しだけ情報を与えていたのである。輪郭を描くのには難しい情報ではあるが、一方であらぬ位置に線を引くことを許さない情報の羅列だったのだ。

■終わり

ブログにクモの巣が張っている

 前回の記事の更新が7月だったようで、今日ので3か月ぶりらしい。マジか。試しに自分のブログのトップページを見に行ったら、「90日以上更新していないブログに表示しています」と、ご丁寧な説明とともに広告が貼ってあった。お前を「蜘蛛の巣」とでも呼んでやろうか。いまいましい。まあ、自分が更新をサボっていたから、ついに自分のブログにも蜘蛛の巣が張られるようになったわけではあるので、文句をつけてもしょうがない。また更新をしようじゃないか。

 これまでの記事は、マイルールとして口調を固くしていたけど、それはもうやめにしようと思います。淡々とした語り口調はかっこいいけれど、かっこいいだけだ、と思ったからです。どうしても自分の思考に合わないと思ったから。それから、最果タヒのエッセイ集『きみの言い訳は最高の芸術』が好きだから、というのもあります。あの本はけっこう自分にとっては衝撃的な本の一つで、文章ってこんなに自由で良かったんだな、と思わせてくれた、そういう本でもあります。そして実際、ああいうエッセイを書きたいと思っている。だから、そうさせてもらいます。

 そもそも、このブログ「はてなゆき」自体は2024年5月に作成したものだった。それ以前にも何度かブログを設立しては継続できずにやめて、また設立してはやめて……というのを繰り返してきた。ただ、「はてなゆき」を設立した当初は「いける」と思っていた。いや、過去にブログを設立しようとしたときも同じ気持ちだったと思うけど。とにかく更新できると思ってた。

 これはこういうロジックだった。まず、一人暮らしが始まるし、ろくに友達を作るスキルもないから、他人と話す回数は激減するだろうとは予測がついた。だから、人と話さないぶん、ネタが貯まるだろうと思っていた。それで、ブログの更新頻度を上げられると思っていた。

 だが現実は違った。まず私はどうにもブログなどの長文記事を高貴なものだと考えているのかもしれないが、とにかく「ブログを書こう」という気になれなかった。普段はもっと高速に、どうでもいいことを考えているはずなのに。それをブログにすれば、記事になるのに。全く書く気にならなかった。それどころか、アイデアを膨らませないまま、ただツイッターに放流する毎日であった。おかげで、ずっとスマホを持ったまま布団の中にいるから、近眼が進んだ。ブログは進まないのにな。

 ふう。でもこうやって、自分の行動を内省してみると、結構書けるものなんだな、とは思った。たぶん、普段から考えていることをもっと思い出せば、きっともっと書けるんじゃないかな、と思う。書くかはわからないけど。いや、書かなければ。

 この調子がいつまで続くのかは、依然として不明ではありますが、どうぞお付き合いください。

■終わり

一週間

 一週間は長い。

 一日、何時間も大学にいて、講義を受けたり、課題に取り組んでいる。私にとっては、次々に飛んでくる課題を打ち返すだけでも、かなり体力が削られてしまう。そのくらいでヘタっているようでは、この先が思いやられる、と、嫌な顔の私に言われた。うるさいよ。

 どうにか家に帰ったら、今度は私の世話をしなければならない。食事を作り、食べさせ、体を洗い、眠らせる。これだけのことでも、やはり私には重い業務のように感じられ、どうにも先延ばしにしてしまいそうになる。それでも、人間になるには、と、私はそれをどうにか、する。

 そのような5日を過ごし、その後の2日は、どうにか失われた体力を回復させようと務める。具体的には、眠る。起きているとどうしても、余計なことばかり考えてしまう。もしかしたら私にとっては重大なことなのかもしれないが、でも誰も気にしていないらしい。だから、余計なことだ。そういうシールを私が貼っているのを見た。

 とにかく、一週間は長い。

* * *

 一週間は短い。

 私は、洗濯を一週間に一度だけ行っている。理由は単純で、一日のうちに大学のそれと洗濯とを同時にできる日は無いからだ。

 休みの日に昼まで眠って、それから洗濯機を動かす。ゴオ、ゴオ、と音を立てて動く洗濯機の中には歪んだ顔の私がいた。一週間の記憶が洗剤とともに水に流れていくようだった。

 洗濯が済んだら、それをまとめてコインランドリーに持っていく。大きな袋にいっぺんに入れて持っていくので、やや重い。それでも、この手続きを怠ってはいけないと、必死に持って行く。通行人はみな荷物が軽そうで、うらやましい。

 夜のコインランドリーには永遠が流れている。ゴオ、ゴオ、と機械が動き、それが止まるのをただ、ひたすらに待つばかりが、私に残された唯一の仕事となる。他には誰もいない。もはや空になった建物と、私の頭の中とが似ているようでおかしい。

 洗濯にかかる時間は長いし、それにかける労力も、それなりにある。でも一週間後には、その成果はまったく無になって、また洗濯をする。この成ったものが再び無くなっていく様子に、私はどうにも、洗濯へのモチベーションの湧いてこないことの理由付けをしている。

 やはり、一週間は短い。

■終わり

満員電車がリアルな人々

 4月から大学生になった。

 福島県から東京都に移り住んだ。一人暮らし。急激な環境の変化に、嬉しさとか悲しさとかストレスとかをたくさん感じて、それに対して共有する相手もあんまりいないから、なんだか頭の中がグチャグチャになっている。

 なんと言っても、人が多い。毎日「なにかイベントでもあったのかな」って思うほどには人が多い。いや、実際ここって都会だし、毎日なんらかのイベントが行われているとしても、おかしな話ではない。

 この前、用事で移動するときに、本物の「満員電車」に乗った。漫画で見たような、人でミチミチになった電車。あのコマに描かれていたあの電車は、リアルだったのだなと、その迫力を前に思った。この街に住む人の現実だったのだと。

 ドア側から見たら、空いている面積は靴1つ分しかない。両足ではなく、片足分。それでも、乗車目標に並んだ人々は、なんともない顔で車両へと飲み込まれていく。

 すかさず私も、前の人々にならって飲み込まれてみる。後から乗ってくる人に押される、押される、押される……。

 潰されてしまう! と危険信号が頭に走ったのは、ドアが閉じる数秒前だったか。ものすごい圧力で押されている。ちょっと痛い。ちょっと不快。とにかくノートパソコンだけは守らねばと、圧力のかからない頭上へと避難させた。

 危ないところだった。もしノートパソコンに圧力がかかり続けたら、スクラップになってしまうのではないかと思った。私の体が潰されようとも、とにかく頭上の、ウン十万の鉄の塊は守らなくてはならない。

 次の駅で乗ってくる乗客も同じような態度で飲み込まれてくる。みんな平然とした顔をしている。リアルなんだ。この人たちの朝は、この光景に染められているんだ。そう理解した。

 電車から降りたら、その瞬間、とんでもなく清々しい気持ちになった。自由だ! 体を動かせる幸せ!

 こういう感じで、東京での生活について書いていると、あっという間に長文になってしまう。それくらい、感じることが多いということである。

 別の話については、またここに書かせていただきたい。

■終わり